2006/03/25

 
 2周年となるこの日に

 「花と爆弾」を出版させていただいて、今日でまる2年となります。出版当初は、これほど長い間、これほどたくさんの方々のご支援をいただいて、こんなに多彩な活動を続けていく機会に恵まれるとは、想像もしていませんでした。

 この2年間、たくさんの出会いがありました。アフガンやイラクで活動されているNGOの方々、アフガニスタンの子どもたち、力を貸してくださるミュージシャン、アーティストの方々、そして「花と爆弾」に希望を託してくださる読者の皆様。これからの1年もできるかぎり、アフガニスタンとイラクの子どもたちの支援、そして平和な世界への希望の連鎖を広げてきたいと思います。

 2001年9月11日の同時多発テロ、そしてアメリカによるアフガニスタン攻撃から、もう4年以上の時間が流れました。アフガニスタンの国内情勢は今でも不安定ですが、日本のメディアに取り上げられることも少なくなってきています。そして、最近こんな質問をされるようになりました。

「色々な国が問題を抱えているのに、なぜアフガニスタンなんですか?」

 これまでも、「どうしてこの活動を始めようと思われたのですか?」と聞かれることは多かったのですが、一言で説明することは到底無理なことですので、その都度「『花と爆弾』をよく読んでいただければ、わかっていただけると思います。」と答えてきました。

 しかし、なぜアフガニスタンなのか?
 多くの方々の関心がアフガニスタンから離れてしまった現実を考えると、やはりこの2周年という日に、お話させていただく方がいいのかもしれません。

 下記の文章は、2001年のアフガン攻撃を受けて、思い悩んだ末に2002年の1月に新聞への意見欄に掲載してもらおうと書いたものです(残念ながら掲載はされませんでしたが)。その頃から、今も私の気持ちはまったく変わっていません。皆様がどう受け止められるかわかりませんが、私はこの気持ちを持ってずっとアフガニスタン支援を続けていきたいと思います。

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「アフガン人の死」

 私は、アメリカ合衆国によるアフガンニスタン空爆を許せないと感じています。そのような発言をすると、よくこんな言葉を返されます。

「それならN.Y.のテロは許せるのか?」
 私はこの反応にいつも当惑してしまうのですが、このように反応する人が日本においても多数のようなので、その考えを理解しようと思いを巡らせる日々が続きました。

 「N.Y.のテロは許せるのか?」 
 許せる訳がありません。一瞬のうちに何千人もの民間人を殺戮してしまうような犯罪を許せるはずがありましょうか?

 そして私はこう問い直します。
「アフガニスタンの何千人もの民間人が、アメリカの爆撃機で殺されるのは許されるのですか」と。

 「しかたがない。」
 多くの人がこの一言で、この問題を片づけてしまいます。N.Y.の人々の死については、強大な軍事力を持ってしても、なんらかの解決をみようとする人が、アフガニスタンの人々の死は仕方がないこととして、問題にしようともしないのです。
 被害国であるアメリカ人が言うのなら、当事者ということもあり理性的に対応できないのかとも思えますが、二十数名の被害者をだしたものの、直接攻撃を受けたわけでもない日本の人々が、私たちと同じように日々を暮らしているはずのアフガニスタンの人々の死を、仕方がないこととして受け入れていることを、私はずっと理解できずにいました。

 どう考えればアフガニスタンの人々の死を受け入れられるのか、様々に思いを巡らせました。アフガニスタンの人々の死は天災や災害によるものではなく、アメリカが犯罪者を捕獲または殺害するために行った作戦の結果の死であるのに。そのアメリカ軍に日本は基地を提供し、後方支援をしています。すなわち私たちが殺していると言っても過言ではない「死」であるのに。

 「私たちがアフガニスタンの人々を殺している。」
 思慮の果てにたどり着いた言葉はあまりにも衝撃的でした。 そしてその言葉はこれまでの謎を解いていきました。
 何のためにアフガニスタンの罪もない人々を殺すなどという非情な手段を使うのか?それはテロ組織を壊滅するため、テロ組織がこれ以上、いわゆる文明国の人々に攻撃を加えないようにするため。すなわち私たちが殺されないようにするため。私たちが死なないためには、アフガニスタンの人々の死は「しかたががない」ことなのだということに気が付いたのです。「N.Y.のテロは許せるのか」と反論していた人々は、本当はこう言っていたのです。
「私たちが殺されてもかまわないのか」と。
 
 ビンラディンやアルカイダを抹殺したところでテロを撲滅できるとは、私は思っていませんが、そう信じている(少なくともそう信じたい)人々は、自分たちに被害が及ぶ前に一刻も早く彼らを抹殺し、安全を確保したいと願うのでしょう。そして自分の身の安全のためには、アフガニスタンの人々の死も、「しかたがない」ことだと思うのでしょう。

 自己防衛のためとはいえども、アメリカの空爆を是とし、アフガニスタンの人々の死を仕方がないこととして受け入れてしまった、いわゆる文明国の人すべてに言いたい。アフガニスタンの人々は、私たちのために死んだのだと。私たちが自分の身を守るという意図のもとに、殺してしまった人々なのだと。

 アフガニスタンでの空爆は終息を迎えようとしています。またアフガニスタン復興国際会議も開かれ多くの国がアフガニスタンに援助金を拠出しました。アフガニスタンが一日も早く復興することを強く望みます。しかし、このことは心に留めて置かなくてはならないのではないでしょうか?

 私たちはアフガニスタンの人々を援助するのではなく、償いをするのだということを。

 私たちが自分の身を守れるのではないかという確かでもない希望のもとに、見殺しにしてしまった人々のことを決して忘れてはならないし、また同じ過ちを二度と犯してはいけません。アフガニスタンの人々のあまりにも理不尽な死を前にしては、どんな言葉も虚しさを隠せませんが、私たちはこれ以上過ちを繰り返してはならないのです。自分の身を守るために、罪もない人々を殺してはいけないのです。

 私は問いかけ続けようと思います。
 「アフガニスタンの人々の死は、許されるのか」と。

2002年1月22日 小橋かおる 筆
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2006/03/21

 
「こぼし文庫」

先週末、竹富島に行ってきました。竹富島は、八重山諸島のひとつで、石垣島から船で10分ほどの所にある小島です。島民は300人ほど。年間30万人もの観光客が訪れるそうですが、昔ながらの生活が残された、とても素朴で穏やかな島です。

私が竹富島に興味を持つきっかけとなったのは、沖縄を見続け、語り続けている随筆家、岡部伊都子さんのドキュメンタリー・NHK ETV特集「消えぬ戦世(いくさゆ)よ ~随筆家・岡部伊都子の語りつづける沖縄~」でした。

太平洋戦争中、婚約者を沖縄戦で亡くされた岡部さんは、自らを「加害の女」と呼びます。出兵前、「こんな戦争で死ぬのはいやだ」と語った婚約者に、軍国少女だった岡部さんは、こう言ってしまったそうです。「私なら、喜んで死ぬけど」

天皇陛下のために死ぬことが当然とされていた時代、何も知らない少女は、婚約者の「非国民」のような言葉に驚いて、そう言って、婚約者を戦地に送り出し、そして死なせてしまったのです。

「そういう時代だったのだから、仕方がない」
そう自分に言い聞かせて、婚約者の事を心の底に封印してしまうこともできたでしょう。でも、岡部さんは、自らを「加害の女」と呼び、婚約者の死と正面から向き合うことを選びました。戦後17年たってから、沖縄本島で戦死したという婚約者の最期を調べ始め、沖縄の悲惨な地上戦を、そして沖縄を覆う空港や道路のアスファルトの下に、今も無数の日本人の骨が「おしひしゃげられ」ていることを知ります。婚約者の死、そして沖縄の悲劇・・・それを長年知ろうともしなかった自分。それまでの自らの薄情を恥じ、岡部さんは沖縄を見続け、伝え続けていらっしゃるのです。

そんな岡部さんが愛されている島が、竹富島。初めて島を訪れた時、故郷に戻ったような感覚を覚え、島を終の棲家にすることを望まれて、一件の古い家を購入されましたが、お体の弱い岡部さんに竹富の太陽は強すぎて、住むことは叶わなかったそうです。そして、その家を「こぼし文庫」を名付け、子どもたちの図書館として寄贈されました。以来、30年以上に渡って、本を寄贈し続けていらっしゃるそうです。

「こぼし」とは、島の言葉で「こども」ということだそうです。未来を作っていく子ども達に、本を送り続ける岡部さん。私は、岡部さんのその考え方、生き方にとても感銘を受け、いつか「こぼし文庫」を訪れたいと強く思ったのでした。

今回、竹富島に訪問して、島の自然の美しさと、人々の心の優しさと島への深い愛情を感じることができました。そして、『花と爆弾』を「こぼし文庫」の仲間に入れてもらうことも。とても大切なものがたくさん残っているこの島。そこで大切に育まれている子ども達に、『花と爆弾』を読んでもらって、記憶の片隅にでもそのメッセージを留めていてもらえたら、こんなに嬉しいことはありません。

注:上記エピソードの1部は岡部伊都子著『沖縄の骨』を参考にしています。

2006/03/12

 
「with・・・若き女性美術作家の生涯」

花と爆弾・webギャラリー」の2006年1月の作品でご紹介させていただいた美術作家・佐野由美さんのドキュメンタリー映画を見てきました。webギャラリーでご紹介させていただいたことをきっかけに、由美さんのお母様の京子さんととても親しくおつきあいをさせていただくようになり、由美さんのお話をたくさん聞かせていただきましたので、今日の上映会を、本当に楽しみにしていました。

このドキュメンタリーはよく「阪神淡路大震災を経験した若い芸術家の女性がボランティア精神に目覚め、ネパールでボランティアをした話」というように、新聞などでは紹介されがちですが、実際拝見すると、そんな紋切り型の言葉では到底言い表せない、由美さん自身の発するパワーに圧倒される、魂にくい込んでくるような作品でした。

23年という短い生涯を駆け抜けた由美さんですが、彼女は世代も性別もまた国籍も民族もあらゆるものを越えて、様々な人からたくさんのものを吸収し、そしてそれをたくさんの人たちに返していった。人を楽しませることが大好きだった由美さんだから、それを震災時には、困っている人のお手伝いをするという形で返していった。ネパールでは美術を教えること、美術を通して子どもたちの手に職をつけることという形で返していったし、また普段は、出会った人たちの似顔絵を描いたり、ダンスをしたり冗談を言ったりという形で返していった。ネパールの子どもたちに囲まれていた時の彼女の笑顔は本当に生き生きとしていて、ネパールという異国にあっても、彼女は子どもたちからの愛やネパールの風土や人々の生き方から、いろんなものをどんどん吸収して、そして同時に由美さんなりの方法でどんどん返していっていたんだな~と深く感じました。

人は何のために生まれてくるのか?
それがもしも人をしあわせにするためだとしたら、由美さんほど、充実した生を送られた方は少ないのではないかと思います。


99年にご逝去されて、もう今年で8年となりますが、このドキュメンタリーと、そして由美さんの残された、被写体の人物に寄り添って描かれた作品を通して、由美さんは今でも人をしあわせに、そしてパワーを送り続けてくれています。

この作品に出会えてよかった。
もう一歩、前に踏み出す勇気を与えてくれた由美さん。あなたとの出会いに、深く感謝しています。

2006/03/06

 
 ナフシャが閉店します;_;

 『花と爆弾』出版以来、ずっと取り扱い店としてご支援いただいていた神戸は新開地のカフェ・ナフシャさんが、3月12日をもって閉店されます。1月には「アフガンの小さな夢を叶えたい」ライブも開催させてもらい、また、たくさんの素晴らしい出会いをもたらしてくれたナフシャがなくなってしまうのは、本当に残念で、淋しいかぎりです。

ナフシャさんからのメッセージです。 
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ナフシャは3/12で閉店することになりました
2/28(Tue)~3/12(Sun)までの2週間
来て下さったみなさま方を店内でポラロイド撮影
させていただき、ナフシャの壁に飾っていき
ラストイベントとさせていただきたいと思っています
ぜひメモリアルイベントにご参加下さい
みなさま、10年間本当にありがとうございました。
http://fox.zero.ad.jp/~zar78600/
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 悲しんでばかりもいられないと思い、昨日妹と一緒にナフシャのメモリアルイベントに参加させてもらいました。土曜日の午後、大きなガラスの窓からはやわらかい光が射し込み、店内はナフシャの閉店を惜しむ方々でいっぱい。オーナーの麻里さんの「はい、撮りますよ~」の声に、妹とふたりで写真に収まり、ナフシャの白い壁に、その写真を貼ってきました。
 また、偶然、アートをしている友人もお友達と一緒にやってきて、また素敵な出会いがありました。このカフェで、どれだけたくさんの出会いがあったでしょう。『花と爆弾』を出版する前から、大好きだった場所。本当に淋しい限りですが、これもまた、もっと素敵な巡り会いのためのお別れだと思って、少しの間、淋しさも我慢しようと思います。

 7日の火曜日には、ナフシャの閉店を惜しむミュージシャンのゆかさんが、ひっそりと投げ銭ライブを行われるそうです。最後の日となる12日まで、私もできるだけ多くナフシャを訪れたいと思います。

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