2012/04/14

 
福島第一原発元作業員小川さんのお話

今年3月末まで福島第一原発(以下、F1)で収束作業に当たられていた小川篤さんのお話を心斎橋のカフェで聞きました。まず、昨年の東日本大震災の後の関西からの支援についてお礼を述べられましたが、私からすれば、あの日本を、世界を放射能で汚染し尽くしかねなかったF1をここまで守ってくれた小川さんや作業員の皆さんには、いくらお礼を言っても言い尽くせない思いです。


お話はまず作業場のこと。F1に免震重要棟という建物がありますが、小川さんたち作業員が使えるのは仮設の部屋で、免震重要棟の横に建てられたプレハブに鉛を貼ったようなもの。その中で皆さん休憩したり、昼食をとったりされるそうですが、室内の放射線量は0.03ミリシーベルト毎時。これは事故前の原子炉建屋内の線量と同じだそうです。


次に強い地震が来ると耐えられないのではないかと心配され、耐震補強作業が続く4号機。その付近での作業におけるヒバク線量は、だいたい3時間で0.3ミリシーベルトだそうです。ということは、0.1ミリシーベルト毎時ということで、10時間の作業で一般人の年間許容ヒバク線量の1ミリシーベルトに達するという環境での作業ということです。そのような状況の中、多くの作業員の皆さんの努力で、なんとか耐震補強作業が先月あたりで一応終了したということですが、小川さんの感覚では「6強の地震に耐えられない」ものだということです。


大掛かりな土木作業が一応終了し、後はポンプやパイプの保守・点検の仕事がメインとなるらしく、大勢の作業員は必要ではなくなったということで、小川さんも3月末でF1の仕事をやめられたわけですが、話は、ヒバク作業を終えた人が持つ「放射線管理手帳」に。そこには作業による外部ヒバクと内部ヒバクの線量が記録されています。小川さんも毎月ホールボディカウンターを受け、内部ヒバク線量を計られていたということですが、計るだけで他はなにもないとのことでした。一度、ヒバク線量が1ヶ月に1000cpmとなったので、技師の人にどういう意味があるのか聞いてみると「1000cpmで、0.062ミリシーベルトの内部ヒバクぐらいだそうです」と言う答えで、「後は、半減期を待つしかありません」と言われたそうです。ちなみに事故前は、1ヶ月に300cpmの内部ヒバクが確認されると病院での診察が必要だったとのこと。「あまり人間として、きちんと扱われていたようには感じませんでしたね。若い作業員たちのことがとても心配です」と小川さん。


そして、東電の下で働くことのストレスについてもお話くださいました。元は警戒区域内の町の住人だった小川さん。原発事故後、避難先で再会した隣家の老夫婦に「なんとかして」と懇願され、「なんとかするよ」「なんとかなるよ」と言ってあげたくて作業員になられたとのこと。その被害者である小川さんが、加害者である東電の元で働く・・・「20キロ圏内に入ると人が変って、怒りっぽくなるんですよ」と小川さん。「20キロ圏内の自分の町に入るのに、東電の発行する許可証がいる。なんで、自分の町に行く許可を東電に与えてもらわないといけないんだ?」「ほんとうに尋常ではないストレスなんですよ。」


お話が終わってから、直接小川さんに声をかけさせてもらいました。「体だけにはくれぐれも気をつけてください。」私に言えるのは、ほんとうにその言葉しか見つかりませんでした。原発というのは通常運転でも、こうしてヒバクしながら、命を削りながら作業してくださる方がいてはじめて動く残酷な発電方法であり、事故を起こしたら、それこそ多くの命を、そして未来の命さえも犠牲にする非道なテクノロジーです。私にできることは、そのことを、多くの人に訴え、核を利用しない世界を実現するために動くことしかないと、命を削ってF1の収束作業にあたってくれた方を前に、強く肝に銘じたのでした。


注:小川さんの話は、前記事でご紹介いたしました小原一真写真展『3.11』 in スタンダードブックストア@心斎橋での記念イベントでお聞きしました。できるだけ正確にメモしたつもりですが、細かい数字は聞き間違えているかもしれませんので、参考程度にお考えください。

2012/04/06

 
『RESET-BEYOND FUKUSHIMA(福島の彼方に)』 

 福島第一原発事故の収束作業に当たられている方々を、真正面から見つめた写真展に行きました。作者はフォトジャーナリストの小原一真氏。1985年、岩手県生まれの若者です。震災後、故郷の岩手県を中心に取材をされていたのですが、2011年8月、「私たちは今ある生活を守ってくれている人たちの、隠された状況を、もっと重く受け止めなければいけない」と、作業員として福島第一原発に入られました。そこで知り合った作業員の方たち・・・彼らの言葉と顔写真が会場に展示されていました。


 作業員とひとくちに言っても、様々な背景をお持ちの方がいらっしゃいます。
渡辺仁さん(39歳)は、「娘のお墓が地元に残っている、だから自分だけでも残ろう」と思われ、作業に当たっている方です。

東電や国に対しては、「東電は最初から嘘をついている企業であり、国もそれに乗っかって嘘をついてきたわけじゃないですか。それを信用して、その人たちの情報しか今はないわけですよね。」

「なんで作業員の実態を明確に話さないのか、10ヶ月も経っているのに、作業員が陽のあたる所に出てないっていうのは本当におかしいことだなと。」「作業とか賃金の問題、安全性も信用できないですよ。」

「お金の出所は東電で、そこで仕事をさせてもらっていますけど、やっぱり間違っていることは間違っているって言いたいですよ。」

渡辺さんの言葉と大きな白黒の彼の顔写真に向き合いました。彼だけでなく、どの作業員の方も、肝の据わった顔をされている。こちらを見つめる、ごまかしのない視線。


作者の小原氏とも少し話をさせてもらいました。作業員の方たちを、仮名やモザイクなしに多くの人の目に触れさせることに、彼にも最初葛藤があったそうです。「でも、それは、ほんとうの意味で、作業員を守っていることになならないんじゃないかなと思ったんです」と小原氏。

「やっぱり間違っていることは間違っているって言いたいですよ。」と発言された渡辺さん。その静かな怒りと覚悟が、彼のまなざしを通して私の心をわしづかみにした・・・写真家と被写体の真剣さが張りつめる貴重な写真展でした。



謝: 渡辺さんの言葉は、小原一真氏の写真集
『RESET-BEYOND FUKUSHIMA(福島の彼方に)』より引用させていただきました。
写真展でお話を聞かせていただき、またブログでの紹介も快く了承してくださった小原一真氏に心より感謝いたします。

写真展のお知らせ
小原一真写真展『3.11』 in スタンダードブックストア@心斎橋
2012.4.2. (mon) - 4.12 (thu)
詳細はこちら→http://www.standardbookstore.com/archives/66041256.html

2012/04/01

 
『一万年の旅路』語りの会 vol.2

一万年もの大昔、大地震と大津波によって、住む場所も、
多くの知恵を持つ<長びと>と呼ばれるリーダーたちをも失った民がいた。
途方にくれる民に向かって、ひとりの老女が語った。


「われらは幼い民で、じゅうぶん学ぶ前に先生を失い、
あれこれを決めるのに言い争ってばかりいる子どものようだ。
ならばこそ、節度ある話し合いの知恵を求める民への道を学ぼうではないか。
(中略)

節度ある話し合いの知恵を求めること。
どんなに大勢でも、どんなに少数でも、
どんなに年老いていても、どんなに若くとも、
節度ある話し合いの知恵を求めること。
一同の中で最年少の者にさえ、
座を与えて耳を傾けるがいい。
(中略)

ただしこれを、私が助言したからといって行うのも、
私を讃えて行うのもまかりならぬ。
みずからその内にある知恵を見抜いて実行せよ。」*


3月30日の上弦の月の夜、『一万年の旅路』の同行者たちが六甲の麓に集まった。「海の渡り」という困難な道を選択した、いにしえの民のゆくえを知るために。そして、私たちはいにしえの民がはるかなる旅路において、いかにして話し合い、知恵を分かち合う術を身につけていったかを知った。

いにしえの民の話を聞いた後、わたしたちは車座になり、今度は私たちが節度ある話し合いの知恵に基づいて、「生きる」ことについて、ひとりひとりが語り、ひとりひとりが静かに聞いた。

それぞれがそれぞれの言葉で、それぞれの背景で、ひとつのことを語っていたように、私には思えた。

みずからその内にある知恵を見抜いて実行せよ。」

誰か偉い人がそう言うから、
誰か権力のある組織がそう指針を示すから、
そうしないと競争に勝てないから・・・。

外の世界から聞こえてくる、物質的な欲求や不安を掻き立てるばかりの声。
その喧騒をしばし断ち切り、静かな時の中で、自分の心の内にある知恵を見抜いて、その知恵に従って自ら行動すること・・・、それがひとりひとりがそれぞれに生きるということだと、思えた夜だった。

*引用文献
『一万年の旅路-ネイティヴ・アメリカンの口承史-』
ポーラ・アンダーウッド著 星川 淳訳 翔泳社 1998年刊


お礼と寄付報告
「花と爆弾」チャリティ・イベントにご参加いただきまして、誠にありがとうございました。語りの鹿島さゆりさんと会場を提供してくださったサラシャンティの清水ご夫妻、そして何よりも集まって素晴らしい時を一緒に過ごしてくださった皆様に、深く感謝いたしております。

おかげさまで、募金も21000円となりました。10000円を福島の子どもたちのための保養キャンププロジェクト「明石で遊ぼう!たこ焼きキャンプ」様へ寄付させてもらいました。残りの11000円は、「花と爆弾」として、今年も9月末にアフガンとイラクの子どもたちのために活動するNGOに寄付いたします。後日当ブログにおいてもご報告させていただきます。


参考サイト:
「花と爆弾」第8回(2011年)寄付報告

『一万年の旅路』語りの会 vol.1の報告

写真は、午後6時の開場前の様子。ここに人々が集い、夜10時過ぎまで語りは続いた。

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