2022/09/02

 

『選挙制を疑う』を読んで~抽選制代議制の可能性~

 


選挙制はそれほど民主主義的?


選挙に当選して国会、県会、市町村会の議員となった人たちは、はたして一般市民を代表するような意見を述べているだろうか?どれほど一般市民のためになる法律や制度を作ってくれているだろう?彼らは私たちとはまったく違う世界に住んでいるようだ・・・そんな思いを持つ人は多いのではないでしょうか?


選挙制度は、民主主義国には欠かせない制度のように扱われているけれど、1週間や2週間の選挙期間中に、どこの誰とも知らず、会ったこともない人たちの中から選んで投票するというこの制度は、いったい何だろう?


私は以前から、選挙制度に懐疑的で、15年前ほどに「抽選制」が古代ギリシアだけでなく、現代でも実現の可能性があるという言説を読んで以来、いつも「抽選制代議士制」が頭のどこかに引っかかっていたのですが、この夏、その私のこれまでの引っかかりに応えてくれるような書籍『選挙制を疑う』(2019年刊:

https://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-60358-7.html)に出会いました。

以下に、とても印象深かったカ所を抜粋引用します。(引用カ所は青字にします。)



ガンジーの言葉だとされることも少なくないが、正しくは中央アフリカから伝わった名言がある。「私のために行ったことでも、私に相談しなかったのであれば、私の意思に反して行ったことになる。」要するにこれが今日の選挙型代議制民主主義の悲劇であろう。 (p.115)


選挙型代議制を民主主義の悲劇と呼ぶ理由は、下記になるでしょう。



 我が選挙原理主義の病因を総括しよう。あらゆる政治的道具のなかで最も民主的である抽選制は、18世紀に選挙制に敗北を喫せざるをえなかった。だが、選挙制は、そもそも民主主義の道具であるとは決して見なされておらず、新興の非世襲貴族が権力を握るための手続きであると見なされていた。選挙権の拡大によって、この貴族主義的手続きは抜本的に民主化されたが、統治者と非統治者、政治家と有権者という根本的で寡頭政治的な区別がなくなったわけではない。エイブラハム・リンカーンの期待に反して、選挙制民主主義は依然として、人民による政治であるよりも人民のための政治であり続けた。常に<上>と<下>、政府と臣民が存在していたのである。投票は、個々人を<上>に持ち上げるための業務用エレベーターになった。その結果、選挙による民主主義は、国民みずからが選択した封建制、人々が同意した国内植民地主義のような形になっている。(p.110)



ここでは抜粋しませんが、特に、アメリカ合衆国の建国時や、フランス革命後と言った、いわゆる民主主義が形成されたとする時期に、抽選制がまったく議論されず、新たな寡頭政治を始めるために選挙制が導入されていった推移の解説は、非常に説得力がありました。


とは言え、抽選制など、実現可能性はあるのか?と多くの方は疑念を持つでしょう。

当書では、世界での抽選制議員院による熟議型議会の実例(カナダ、オランダ、アイスランド、アイルランド)も紹介されています。



世界での抽選制議員院の諸提案


それらの実践例の詳細は割愛しますが、その実践例を踏まえた、議会における熟議型意思決定のための抽選制議員院の諸提案(p.142-143:図表5)が紹介されていますので、それらの提案の共通項について、引用します。


第一に、いずれの案も、フランス、イギリス、アメリカ、EUといった大規模な国家や地域に関わっている。抽選制が都市国家やミニ国家にしかそぐわないとされた時代は過ぎ去っている。

第二に、かなりの見解の相違があるにもかかわらず、任期(数年間がベスト)や報酬(高い報酬がベスト)についてはコンセンサスが見られる。

第三に、すでに議会でなされているように、能力の個人差は、教育や専門家の支援によって克服されなければならないとされる。

第四に、抽選制議院は選挙制議院から分離しているとは見なされておらず、選挙制議院を補完するものと見なされている。

第五に、抽選制が検討されているのは立法機関の一院だけである。(p.147)



日本の国会に置き換えると、衆議院は選挙制代議士制のまま、参議院は抽選制代議士制を採用するという形が考えられます。

この一院だけを抽選制にするメリットは?



一院を抽選制にすると・・・


 抽選で選出された市民には、職業政治家のような専門知識はないかもしれない。だが、別のものがある。すなわち自由である。詰まるところ、当選する必要もなければ、再選する必要もないのである。

 だからこそ、選挙で選出された市民だけでなく、抽選で選出された市民にも立法権を委ねることが、民主主義の現段階で重要になるのである。(中略)第二院は、長期的な公共の利益を一貫して優先する議院であり、市民が文字通り話し合いに参加できる市民の議院である。彼らがその他の市民よりも優秀であるからではなく、置かれた状況ゆえにポテンシャルが引きだされるからである。

 民主主義とは、我々の社会の特に優れた人々による統治ではない。そんなものは、たとえ選挙で選出されたとしても貴族政である。選挙できたとしても、ためらうことなくそう呼ぼうではないか。これにたいして真の民主主義は、多様な声に発言を許すことで初めて花開くのである。(p.162)



「真の民主主義は、多様な声に発言を許す」・・・現在の日本の国会や地方議会のように中高年の男性ばかりという多様性からかけ離れた集団による意思決定が、どれほど社会を生きづらく停滞させるか・・・それを実感する日々ですので、ほんとうに多様な声に発言を許すことの重要性を感じざるを得ません。


国会や地方議会は多様性、抽選制からはほど遠いですが、日本でも、実はすでに抽選制による市民の声を活かす取り組みが行われています。最後に、私が検索して見つけた日本の例をご紹介します。


日本での抽選制議会の取り組み例 (年代の新しいもの順)

特に、気候変動危機に関しての取り組みが顕著です。

2022年8月から開催中の取り組みです

 ↓

■武蔵野市気候市民会議

http://www.city.musashino.lg.jp/kurashi_guide/shouene_eco/1036360/index.html

「気候市民会議とは?

 無作為抽出などによって選ばれた市民が、気候変動対策について話し合う会議です。その開催は欧州各国で広がりを見せており、日本国内でも開催されています。

 本市では、気候変動の現状に詳しい講師によるレクチャーを踏まえた上で、地球温暖化に対する目指すべきまちの姿や、一人ひとりの関心と行動を変えていくための取り組みについて市民目線で話し合います。」(上記武蔵野市サイトより抜粋)


若者が気候市民会議の推進に動いています。

 ↓

■「気候市民会議の実現を」若者グループが山口環境相に要望 温暖化対策強化へ意見交換

東京新聞 2022年6月15日 https://www.tokyo-np.co.jp/article/183591


フランスでの気候市民会議の詳細を伝える記事。

2018年の札幌の気候市民会議の様子も伝えています。

 ↓

■<民主主義のあした>環境政策にもの申す素人集団 

フランスの「くじ引き市民会議」に世界が注目

東京新聞 2021年5月3日 https://www.tokyo-np.co.jp/article/102029



長期的課題である気候危機について、抽選制市民会議が盛んですが、この体験が成功例となり、地方議会の一部にでも取り入れられ、最終的には参議院にも広がり、多様な人々の熟議による意思決定が増えていくことを願います。



追記:

日本でも実は10年以上前から抽選制による市民の意見の活用が試みられていたことを伝える記事です。

 ↓

■<民主主義のあした>市民の意見を熟成させる「討論型世論調査」 

議会制民主主義を補完するツールに

東京新聞 2021年5月3日 

https://www.tokyo-np.co.jp/article/102030

「くじ引きで選ばれた市民らが討論を重ね、意識がどう変わるかを調べる「討論型世論調査(DP)」も、議会制民主主義を補完する取り組みの1つだ。欧米では1990年代から活用され、日本でも2009年以降、国や神奈川県、藤沢市などが計7回実施した。

(中略)

旧民主党政権が12年に「原発ゼロ」の政府方針を決めた際にも、DPはパブリックコメントや意見聴取会と合わせて重要な判断材料となった。政府は12年、30年の原発比率について「0%」「15%」「20~25%」の3案を提示。無作為に選ばれた男女285人が議論を重ねた結果、0%案を支持する人は32%から46%に増えた。

 しかし12年末の衆院選で民主党が下野すると、原発ゼロ方針は立ち消えとなった。国としてのDPも以後、開催されていない。」



2012年の夏には、抽選制のDP以外にも、日本各地で「国民的議論」として、国家戦略室の職員が市民たちと意見交換するという場も設けられていました。私も神戸でそのような意見交換会を仲間たちと開催し、とても建設的な議論を国家戦略室の職員と交わしたことを覚えています。そして、その秋に「2030年代に脱原発」と当時の民主党政権は、なんとか国民的議論を反映させたものを発表しましたが、2012年の冬の総選挙で安倍政権が返り咲くと、そのような国民的議論の結果は、まったく一蹴されてしまったのでした。


あの時、熟議の後に形成された世論に沿って、日本が脱原発を決め、再生可能エネルギーを推進していたら、現在の日本はここまで衰退していなかったのではないかと、私は悔やんでいます。


2012年に仲間と神戸で開催した政府との意見交換会




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