2011/10/28

 

『キャピタリズム』:資本主義と日本

先日、マイケル・ムーア監督作品『キャピタリズム~マネーは踊る』を観た。これまでもアメリカという国は大企業に支配された国だということは私なりに理解していたつもりでいたので、その確認という感の強い映画鑑賞だったが、この不公正な現状を変えるために人々に行動を呼びかけるムーア監督の映画作りには感銘を覚えた。

映画上映の後、石川康弘神戸女学院大学教授(経済学)の講演があり、日本におけるキャピタリズムについての説明があった。アメリカのことは「大企業に支配されている」と感じていた私も、自国のことはやはり近すぎてか、はたまた大手メディアに煙に撒かれてか、強い実感を持っていなかったが、実はアメリカ同様、私たちの投票行動よりも大企業の方針が国政に大きく影響していることが、石川氏の指摘でよくわかった。いくつか実例を紹介したい。

大手メディアでは、復興増税としての所得税増税やたばこ増税などがよく取り上げられ、大震災からの復興と今後の年金などの社会保障を考えると消費税増税もやむなしとの意見が声高に語られるが、実際に日本国の税収が現状のようになったのは、いったい何が原因であるかということを伝えていない。

石川氏の指摘によると法人税の引き下げと、雇用者の報酬減が税収の落ち込みの大きな理由だという。氏が示した資料によると、1997年の大企業の経常利益は16.1兆円であったのに対し、法人税による税収は13.5兆円、10年後の2007年には経常利益は32.3兆円であったのに対し、法人税は14.7兆円に留まっている。97年には税率37.5%であった法人税が、2003年以降急激に税率が下がり、大企業を中心にきわめて低い負担率となったためだという*1。また、内部留保も97年の142.4兆円から07年には229.1兆円と急増。

一方大企業の雇用者報酬は97年の279兆円から262兆円へと下がっている。石川氏も言っていたが、事業者から見れば、雇用者報酬で削減した分の16兆円がそっくりそのまま経常利益の16兆円増になった形だ。雇用者という一般の生活者を犠牲にして、企業の利益を優先させることを許す税制と言えるだろう。

また、現在の野田総理だが、まだ組閣もできていない段階で、日本経団連会長など経済界のトップへの挨拶まわりをしたという*2。石川氏はこれこそが国民よりも経済界を重視する姿勢の表れだと指摘。このように国民の投票行動による意思よりも経済界の意思に沿った政策があからさまに行われるようになった背景に、2003年以降、日本経団連が、企業のお金を政党に割り振るのではなく、政党の政策を評価して、それに基づき資金の斡旋をするというやり方を取っていることによると石川氏は言う。これでは二大政党制になっても、国民はどちらの党を選んでも、どちらの政党の耳も経団連の発言に向き、経団連のための政策が行われることに変りはない。まさに、キャピタリズム・・・資本を持っている者が支配する社会だ。


さて、実例を元に私なりに考えてみる。
そもそも資本主義とは何か?石川氏によると、人間関係は「労使関係」のみで考え、そして行動の動機は「利潤の追求」のみという考え方だそうだ。その考えを当てはめると、生活者の報酬を下げても企業の利益を増加させ、社会の基盤の一つである法人税も下げさせるだけ下げさして、消費税を上げろ(代わりの負担は国民にさせろ)との意見を大手メディアを使って国民に浸透させるなどの行動に、経済界が邁進する理由がよくわかる。そしてこの経済界の考えを簡潔にまとめたものが、「経済成長」「GDPの増大」だけを社会の目的のように語る「成長神話」だろう。


しかし、利潤の追求だけのために動く社会とは一体何なのか?資本主義により、物理的に豊かになる速度を速めるという利点はあるようだが、その行き着く果ては、人間関係、環境などを破壊していくという、根本的な生活基盤の破壊である。生命体としての生活の基盤を壊してまで、得る利潤に何の意味があるのか?そんな社会に人間は暮らせるのだろうか?利潤の追求のみのために生きられるのだろうか?


最後にふたつの言葉を紹介したい。
東日本大震災による原発事故を経験した日本人として、また反格差社会を目指す世界的行動が渦巻く世界市民として、また環境破壊にあえぐ地球に生きる人間として、重く受け止めたい言葉だ。

GNPの中には、
子どもたちの健康も教育の質も、遊びの楽しさも含まれていない。
詩の美しさも、夫婦の絆の強さも、
…私たちの機知も勇気も、知識も学びも。
私たち一人一人の慈悲深さも、国への献身的な態度も。
要するに、国の富を測るはずのGNPからは、
私たちの生きがいの全てがすっぽり抜け落ちている

       ロバート・ケネディ

最後の木の一本が切り倒され、
 最後の川が汚染され、
 最後の魚が捕らえられた後。
 そうなってはじめて金銭は食べられないと気づくだろう
。」
      クーリー・インディアンの予言



自分にとって大切なものを守るため、自らが行動しなければならない。
私は利潤追求のための道具ではありたくない。


注:ブログ内で紹介した経済に関する数値は2011年10月22日の石川康宏氏講演会の資料からお借りしました。
*1 大企業の法人税については、wikipediaの解説をご参照ください。
*2 『野田新首相「間断なく経済対策を実行」 経団連会長に協力要請
2011.9.1 12:20 産経ニュース記事

2011/10/22

 
マラライ・ジョヤさんが語るアフガニスタン

10月21日。大阪女学院にて開催されたマラライ・ジョヤさんの講演会に行った。ジョヤさんは1978年アフガニスタンの生まれ。4歳の時に家族とともにパキスタンに難民として避難し、そこで教育を受け、1998年の帰国の後は、タリバン政権下で教育を禁じられていた女性たちのための地下教育に携わる。タリバン政権崩壊の後、2005年第一回総選挙で最年少国会議員に当選。しかし、軍閥政治家を戦争犯罪者として裁くよう要求し続け、議員資格を剥奪された。


アフガニスタンの女性の話を聞くという機会はめったにないため、私も楽しみにしていた講演会だったが、やはり多くの人の関心を集めたのか、会場は立ち見もでるほどの人であふれかえっていた。現われたジョヤさんは笑顔のかわいらしい小柄な女性。しかし、その黒い瞳には世の中の真実を見据えたような聡明さが漂っていた。


およそ90分間、たくさんのことを語り、多くの質問に答えてくれたが、その中で彼女が繰り返し訴えていたことを少し紹介したい。
一つには、アフガニスタンの人々は、軍閥とタリバン、そして米軍やISAF軍の占領によって苦しめられているという事実。日本を始めこの対テロ戦争に加担している国の人々に知ってもらいたいのは、アフガンの人々にとっては、占領軍もタリバンや軍閥と何ら変らず、人々を抑圧し続け、そして殺し続けている存在でしかないということ。昨年『TIME』誌で表紙を飾り話題となった「(婚家から逃げ出したために)鼻を削り取られた女性」の写真と、占領軍による白リン弾、クラスター爆弾によりひどく負傷した子どもたちの写真を並べ、「TIME誌には、『われわれが撤退したらアフガンはどうなるのだ』というような言葉が表紙にならべられているが、占領軍の行う殺戮はまったく報道しない。『われわれが占領し続けたらアフガンはこうあり続ける』との言葉こそふさわしい」と語っていた。


また、占領軍は「女性の解放」を掲げて、アフガン攻撃を始めたが、それから10年、まったく改善されていないし、いっそうひどくなっている。アフガニスタンはこれまで、ソ連からの占領、タリバンによる支配、そして現在の米軍などによる占領を受けているが、あの暗くつらかったソ連による占領期の方がましだったとさえ思える。どんな旗を掲げていようと、戦争で被害に遭うのは女性と子ども。ソ連は社会主義を、タリバンは原理主義を、そしてアメリカは民主主義を掲げて、アフガンを占領している。主義の名前が違うだけだ。


そして、日本とアフガニスタンの共通点にも何回も触れられた。すなわち日本もひどい戦争を体験し、また占領期を体験した。そして現在も沖縄を中心として米軍基地を置かれたままである。日本の人々がいくら平和を願っていても、政府は国民の意思とは関係なく、アメリカに追従し、アフガンやイラクでの戦争でアメリカ側に加担している。政府と人々の思いが違うということは、どの国でも言えることだ。それはアフガニスタンでも同じで、政府が腐敗していてもアフガニスタンの人々は平和を願っている、そして、日本でも、アメリカでも同じことが起こっている。悲劇はアフガニスタンのものだけではない。日本でもアメリカでも国民はウソをつかれて、税金や国民の命が政府の経済的戦略的目的のための戦争につぎ込まれている。人々は連帯しなければならない。


戦争と占領を繰り返される国に生まれたひとりの女性の、その視野の広さと思慮深さに感銘を受けた一夜となった。

関連サイト:
マラライ・ジョヤさん講演会http://rawajp.org/?p=225

2011/10/10

 

アフガン空爆からの10年間

2001年9月11日のアメリカ同時多発テロを受けて、米軍を中心に開始されたアフガニスタン報復攻撃。10年前の10月8日未明、戦艦より発射された巡航ミサイルによる攻撃を皮切りに開始された爆撃。あの年の10月のアフガニスタンの青空を、私は今でも鮮明に覚えている。荒涼とした大地とどこまでも広く澄み渡った空に、銀色の爆撃機が飛行機雲を長く引きながら、世界でも最も貧しい、飲み水もままならないような人々に、爆弾を雨あられと落としていった。そしてその行為を、世界の大国と呼ばれる国々が、「テロとの戦い」と諸手をあげて賞賛し、加担する。あの10年前の秋から、私はいわゆる「先進国」の作り出す「国際社会」、「現代社会」にすこぶる居心地の悪さと気味の悪さを感じたままでいる。その違和感は年々強まるばかりだ。


アフガン空爆より10年を受けて、神戸新聞で『報復の暗い残像』(2011年10月9日、10日付け)という特集が組まれていた。ウラン兵器の使用が疑われるアフガンで、子どもたちの白血病が急増していることが報告されいた。また、米軍やISAF(国際治安支援部隊)軍による市民への誤爆や誤射も報告された。その記事の中に、英BBC放送のアフガン通信員だった弟をISAF軍に射殺された兄の言葉が紹介されていた。

「弟は記者証を見せようとしただけだ。自爆犯と間違えられるわけがない。」

身の危険を知らせる弟からのメールに、駆けつけた兄が見たものは、
顔に銃撃を受け、手に記者証を握りしめた弟の遺体だった。

事件から1ヶ月後に、ISAFが誤射を認め、担当者が補償に関するマニュアルを持って慰問に現れた。

兄は言う。
「金なんかいらない。その倍の額を払うから、弟を撃った男をこの手で撃たせてくれ」


この兄の言葉はある真実を突いている。「先進国」の人間が、アフガニスタンの人々の命をどれほど軽んじているかということを。どれだけ「先進国」の兵士が誤射しようと、どれほど兵士がアメリカ本土から操縦する無人爆撃機で村を誤爆しようと、そこで失われた命は「先進国」にとっては「はした金」で済む問題であるが、その逆はあり得ないということを。


アメリカ同時多発テロで亡くなった3000人にも及ぶ人々、この10年間の対テロ戦争に巻き込まれて亡くなった少なくとも1万3900人といわれるアフガニスタンの人々(イラクでは12万5千人)*。この人々の命は、国籍にかかわらず、限りなく尊い。その命を奪うことは、誰にも許されるものではない。
ひとりひとりの命に向き合うことなくして、さらなる悲劇を防ぐことはできない。


「争いがないようにしなければならない。
すべての人間を平等に扱いなさい。
すべての人間に同じ法を与え
すべての人間に生きかつ育つための
平等な機会を与えなさい。
すべての人間は、
同じグレートスピリットの長によってつくられた。
だから、人間はみな兄弟だ。
大地はすべての人間の母だから
人間がその上で平等なのは
当然のことなのだ」
ジョゼフ首長(ネズ・パーズ族)の言葉


対テロ戦争の10年間、アフガニスタンの人々をずっと支援させてもらうことによって深く気づかされた、争いのない世界への教えである。


*死者数は神戸新聞(2011年9月10日付け社説)参照
http://www.kobe-np.co.jp/shasetsu/0004453840.shtml

追記:「花と爆弾」第8回寄付報告
2011年9月30日に、第8回目となる収支計算をいたしました。
お陰様で今年も123,800円の寄付をさせていただくことができました。
今年はアフガン、イラクに加えて、福島の子どもたちのための活動にも、
寄付をさせていただきました。
微力ですが、これからもできるだけのことを続けていきます。
詳しくは下記ブログをご覧ください。
http://whatsnew-on-flowersandbombs.blogspot.com/2011/10/8.html
いろいろな形でご支援してくださった皆様、本当にありがとうございました。

絵は「花と爆弾ーもう、戦争の暴力はやめようよ」より
・さあみんな巡航ミサイルにまたがって月に向かってクルーズしよう

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