2013/03/13

 

3・11神戸からの祈り



東日本大震災からちょうど2年となる2013年3月11日。未曾有の大津波と原発事故により、復旧どころかまだ見通しもつかない状況で暮らしていらっしゃる被災地の方々に、同じように自分の街を失うという経験をした神戸から、小さくても何かできないかと、3・11以降、デモやイベントで知り合った仲間と、「3・11神戸からの祈り」を企画し、私は第一部のマルイ前での集いの司会を担当させてもらいました。



平日の夕方からということで、どのような方が参加してもらえるか不安でしたが、やはり皆さんこの3月11日という日を特別な思いで過ごしていらっしゃるのでしょう、三宮のマルイ前で準備を始めると、たくさんの方が足を止め、声をかけてくれました。



オープニングの望月逸子さんによる詩の朗読が始まると、たくさんの人が熱心に聞き入り、この祈りの空間を守ってくれるように、ずっと輪をつくってくれていました。

私たちの「神戸からの祈り」の心がそのまま表現されているような望月さんの詩「祈り」。
お許しを戴きましたので、転載させていただきます。




<祈り> ~バッハ~無伴奏チェロ組曲・第5番 サラバンドにのせて~

                             望月 逸子


あの原発事故の日から 一度も開かれていない窓の内側より
あなたが呟きの礫を投げていたとき
わたしの心は音楽を失っていた

つぎつぎと遺体が打ち寄せられる 白波が立つ浜辺に
どうしても毎日足が向いてしまうと
あなたの便りが告げてきたとき
わたしの瞳は光を失くしていた


18年前の神戸の街には
潰えた建物を建て直すための
更地があった


家の下敷きになった幼子を葬るための
小さな棺は
順番を待てば届いた

そんな酷いことさえ《せめてもの幸い》と呼ばねばならない日常が
あの日 いきなり押し寄せてくることなど
誰も想像することができなかった


死者    15880人
行方不明者  2694人
避難者  321433人


家々の黒光りする柱に馴染んでいた
無数の日めくりは
2011年3月11日のまま
今も海原を漂いつづける


わたしは神戸の街で捜した
失った音楽と
無くした光と
それらを身にまとう人々を


空も海も 小さな列島を巡りつながっている
出口も羅針盤もない箱舟に乗り込み
この水惑星の命を傷つけながら
漂流をつづけるのは 
もうやめよう


すでにたくさんの人たちが箱舟から降り
桟橋を渡っている


風を食べ
太陽を吸い込むために
新しい ホモ・サピエンスとして生まれかわるために


さあ鎮魂の歌と祈りを捧げよう

喪った大切なもののために
闇の中でこそ出会えた
光のために



吟遊詩人社HPより転載
http://ginyusijinsya.jimdo.com/2013/03/11/3-11神戸からの祈り/


また、もうひとつ、望月逸子さんの言葉をご紹介します。

東北と神戸の震災を軸とした交流は、
<闇の底から立ち上がろうとしている者と、立ち上がろうとした者たちの交流>である。」




神戸は復興したように見えるでしょう。でも、もしかしたら、立ち上がろうとして、また「開発」という名の新たなるコンクリートに押しつぶされてしまったのかもしれない・・・。もしかしたら、日本中、世界中で「経済成長」という名のコンクリートに押しつぶされているのかもしれない・・・。

闇の底から、同じ光を見つけた人々とつながって、光にむかって一緒に進む・・・そんなつながりを持ち続けられたらと願います。




★3・11神戸からの祈り
2013年3月11日(月)
◇第1部17時~18時15分@神戸三宮マルイ前

・望月逸子さんによる詩の朗読
・被災地へのメッセージ集め
・咲野加(サヤカ)さんによる歌
・福島からの避難者Atelier-Tono渡辺さんのライブペインティング
・キャンドル点灯
・歌『花は咲く』合唱


◇第2部18時30分~21時
@神戸市勤労会館(三宮)308号室

・福島県で活動する若者とのスカイプ交流
・福島から避難して来られた渡辺さんによるお話
・福島の子どもたちの保養プロジェクトにとりくんでいる方のお話
・映画「禁じられた大地、福島」上映
主催:3.11神戸からの祈り実行委員会


勤労会館の第2部にも100名の方がお越しくださいました。
ほんとうに、ありがとうございました。







2013/03/03

 

『聖杯と剣』とネイティブ・アメリカンの言葉



「何故わたしたちは互いに迫害し虐げ合うのか。何故、わたしたちの世界は人間に対して-女に対して、かくも忌まわしい残忍さにみちみちているのだろうか。どうして人間は自分と同じ人間にかくも残虐たりうるのか。一体、われわれを優しさよりは残酷さへ、平和よりや戦争へ、実現よりは破壊へと慢性的に駆り立てるものは、何なのか。」p.2*


学校で教えられる歴史は、戦争と侵略と、その征服者が獲得した領土の広さと略奪の上に造り出される豪奢な宮殿というような暴力の羅列。またその破壊の陰には無数の兵士や無辜の民の死と征服された側の女性への陵辱が隠されている。西洋列強による新大陸、アジア、アフリカへの侵略を「大航海時代」などというロマンチックな名前をつけて、いかにも素晴らしい文明の進化のように記述する。


現在も、今の科学技術を持ってすれば、飢える人はなく、皆が安全な水を飲むことのできる世界も可能であるのに、それよりも、弾道ミサイル、核開発、宇宙の軍事開発と言った「破壊」のためにその知識を使うことに、わたしたちはやっきになっている。




何故、わたしたちの世界はこれほどまでに「破壊」と「暴力」に満ち、それを当然のこととして受け入れているのだろう。。。この「破壊的な」思考パターンに、恐らく誰しも疑問を感じたことがあるのではないでしょうか?



その謎を解こうと、私たちが学校で教えられる歴史よりもっと昔・・・5千年以上前からの人類の歴史を探った女性、リーアン・アイスラーの著書『聖杯と剣』に出会いました。



先史時代、すなわち学校で教えられる文献などが残っている時代よりもずっと以前、人々がもっと平和に暮らしていた事実をアイスラー見つけました。彼女が見つけたその場所は、1万年から5千年前の、エーゲ海やドナウ川周辺の<古ヨーロッパ>。人々は生命を生み出す象徴として女神を崇拝し、農耕を基盤とする共同体を形成し、母系制による平等な暮らしを営んでいました。そのような形態の社会が存在したことを、新たな考古学などの発見から、アイスラーは確信し、それを<協調形態社会>と名づけます。



アイスラーによると、この<協調形態社会>が破壊されるのがおよそ5千年前。7千年前ほどから始まったクルガン人と呼ばれるアジア・ヨーロッパ北東地域の遊牧民の古ヨーロッパへの侵略により、その<協調形態社会>はクルガン人の持っていた<支配者形態社会>に取って変られ、それが今日の社会形態として生き残っていると言うことです。



当時のクルガン人の社会は、男神を信仰する家父長制。人間の半分を構成する女性を、男性が支配することを当然と考える<支配者形態社会>であったということです。そのクルガン人により支配された古ヨーロッパでは、それまでの女性創造神が徹底的に抑圧され、女性性に関わるような優しさ、平和、芸術といったものが、男性性を象徴する力に劣るものとされたというのです。命を育み、分かち合うという女性性の象徴「聖杯」と、力によるの破壊の象徴「剣」。これがこの著書のタイトル『聖杯と剣』の由来です。



その先史時代の<協調形態社会>の在り方、また<支配者形態社会>がいかにその女神の社会を破壊し、その圧倒的な女神(=女性性)の否定がこれまでの長い時をかけて繰り返し行われ、現在の宗教、文化、社会に色濃く残っているかなどの詳細は、なかなか読んでいてワクワクというか、「なるほど~」と長年の疑問が解かれるような深い感慨を覚えるものですので、ご興味をもたれた方はぜひ読んで、ご自身でその真偽を確かめてもらいたいと思いますが、私がこの書籍を当ブログでご紹介したいと思ったのは、以下のようなことが書かれていたからです。



「今日、わたしたちはもう一つの決定的になるかもしれなぬ分岐点に立っている。<剣>の致命的な力が---数メガトンの核弾頭によって百万倍にも補強されて---すべての人間文化を終わらせようと脅かしている(中略)

 何千年という間、人間は戦争を繰り返してきた。<剣>は男性的象徴たりつづけてきた。だが、このことは人間が必然的に猛々しく好戦的であることを意味してはいない。記録に残っている歴史を通じて、穏やかで非暴力的な人間がいたことも事実なのである。さらに、先史時代の社会には、<聖杯>が象徴しているようような与え育む力が何よりもたちまさっていた、そういう男や女がいたことも明白なのだ。根底に横たわっている問題は、一つの性としての男性ではない。問題の根源は<剣>の力が理想化され---真の男らしさとは猛々しく支配的であることにほかならず、この理想に反する男は「柔弱にすぎる」、「女々しい」とみなさなければならないと、男にも女にも教えるような社会組織そのもののなかにある。」pp.9-10*



 

「頼もしい男らしさをふるって、女につくすのは良いことだ。

俺たち男というのは、生まれるときも死ぬときも、

女の手をかりなきゃならないんだからな。」

 ヒー・ドッグ(オガララ・ラコタ族)1900年ごろの言葉**





大地を「母」と敬い、命を生み出す女性に敬意を払っていたネイティブ・アメリカン。<剣>である男性もその力を共同体のためになるように使う・・・そんな彼らの社会が、アイスラーの言う<協調形態社会>に限りなく近かったと、私はずっと感じていました。そのような社会が古ヨーロッパにもあった、そしておそらくアマテラスオオミカミという女神を祭る日本にもあったのではないでしょうか?

ほんとうはそれが本来の人間の在り方なのかもしれません。



ほんとうに、そろそろ目を覚まさないと。





引用文献

*『聖杯と剣-われらの歴史、われらの未来』

リーアン・アイスラー著 野島秀勝訳 法政大学出版 1991年刊



**『俺の心は大地とひとつだ-インディアンが語るナチュラル・ウィズダムII』

ノーバート・S・ヒル・ジュニア著 めるくまーる 2000年刊






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