2011/08/29

 
肥田舜太郎医師のお話①「あなたがあなたの体の主人公」

8月28日、尼崎市立中央公民館で開催された講演会で、今年94歳になられる肥田先生のお話を聞きました。先生は66年前の広島原爆投下直後から、ずっとヒバクシャの治療にあたってこられた稀有な存在のお医者様。

原爆投下の様子を、往診で訪れていた爆心地から6キロ離れた農村で見ていたこと。市内の勤務病院に向かう途中で出会った「最初、人間とは思わなかった」というほど全身にやけどを負った人々のこと、その後の医療活動で、なぜそうなるのかもわからないまま、髪の毛がぬけ落ち、口から尻から血を吐く人々をなす術もなく看取ったこと。直接原爆を受けていないにもかかわらず、爆心地を数日身内の捜索などでさまよっていた人たちも、同じような症状で数日間のうちに亡くなられたこと。

数年後から、正体不明の倦怠感に襲われ、仕事もままならない状態になった人々、癌や白血病を発病した人々を診たこと。これら正体不明の病が放射線による症状だったということを知ったのは、戦後30年ほど経ってからのことだったそうです。

「福島の原発事故の後、テレビに出て、『安全だ、安全だ』と言っている専門家と呼ばれる方々がいるが、あの中にひとりでも広島、長崎の原爆投下直後に治療をした人がいますか?私はあのときからずっとヒバクシャの脈をとり、そして看取ってきた。」

「放射性物質が体の中に入ってしまうと、もう現在の医療では何もできない。現在の科学は、放射線が人体に及ぼす影響を解明できていない。わからないということは、病気がないということではない。医学では解明されていなくても、今後福島の人々が広島や長崎の人々と同じように苦しむであろうことが、私は経験としてわかるのです。」



「医師として、体内に入ってしまった放射能をどうする術もない。だから、もしもあなたの体に放射能が入ってしまったのなら、あなたがどうにかしなさい。あなたしかその放射能がする『わるさ』を止めることはできない。タバコを吸う人なら、タバコを止める。それもできないのなら、放射能に負けてしまいなさい。ご飯はゆっくり30回は噛んで食べなさい。唾液が米の栄養分を100%腸に吸収するのを助けてくれるから。それもできないようなら、放射能に負けても仕方がない。」
あなたがあなたの体の主人公なのだから


94才とは思えない活力のある声が会場に響きました。
福島第一原発事故が起きてしまったことはもうどうしようもない。
もちろんこのような事故を繰り返さないために、原因と責任の所在をはっきりさせ、新しい仕組みを作るという社会的な取り組みが不可欠であることは当然のこと。
しかし、それと同時に、
これから自分に何が起きて、そしてどう生きていくのかが問われている。
ひとりの人間としての生きる覚悟の必要性をはっきりと認識させてくれた、真に迫るお話だった。


上記のお話に近い内容が、下記の本で読むことができます。
また知らされないうちに被曝している私たち、世界中の人々の実態も知ることができます。
新書で手に入れやすいので、ぜひご覧ください。

■『内部被曝の脅威-原爆から劣化ウラン弾まで』
肥田舜太郎・鎌仲ひとみ著 ちくま新書 2005年初版







肥田舜太郎医師のお話②「外国の軍隊に占領されるということ」

終戦当時28歳で軍医だった肥田先生。現在でも低線量被曝による人体への影響が解明されず、また治療方法もない状態の大きな原因として、戦後7年間の米軍統治を指摘されていました。

「マッカーサーが日本にやってきて、いろいろと日本人に『してはならないことを』ずらずらと発表した。彼らは賢いからそんなことを書面になんて残さない、口頭で発表するだけです。その中で私が一番許せないのは『原爆によってもたらされたものはすべて米軍の機密であるから、一切公表してはならない。医師は治療をしても良いが、それを他の医師と話し合ったり、論文に発表したり、研究してはならない』というものです。あの頃からしっかり研究ができていれば・・・と悔やまれてなりません。」

先日見たドキュメンタリー番組で、占領期の広島、長崎では、新聞や雑誌に「原爆」「放射能」という文字は登場しなかったと知りましたが、それほどまでに人々の言動を規制していたのかと、その事実に驚くとともに、当時のことを何も知らされていないままである自分にも驚きました。

また、先生はしみじみとおっしゃいました。「外国の軍隊に占領される・・・これほど情けないものはない。白昼の路上で占領軍の兵士が日本の女性を素っ裸にしてレイプをしていても、誰も何もできずに遠巻きに見ているしかなかった。こんな情けないことはない。」

1945年から52年までの占領期。日本が占領されていたことを私が初めて知ったのは16歳の時(1980年)に渡米したとき。リサイクルショップのようなところでたまたま見つけた日本製の古いおもちゃでした。そこには "Made in occupied Japan"と書かれていました。日本では「occupied=占領された」ことに関することは学んだこともなければ、テレビの戦後特集のようなものでも見たこともなかったので、とても驚いたことを覚えています。

放射能のこと、原発のこと、そして占領期のこと・・・皆の命にかかわるような重大なことを、何も知らされないままに、また知ろうとしないままにこれまで生きてきたのだと、先生のお話を聞いて、改めて痛感しました。

「世の中を変えることができるのは、ひとりひとりの市民しかない。
ひとりひとりが命のために、未来のために行動してください。」

講演会を締めくくった先生の言葉です。

肥田先生の言葉を深く心に刻み、
もっとたくさんのことを知り、そして自分のこととして受け止め、
未来の命のために、行動していきます。



*肥田先生の講演の内容を、感想とともに綴らせていただきましたが、講演内容を録音していたわけでもなく、自分の記憶を頼りに書いたものですので、細かな言葉の使い方などに違いがあるかもしれません。ご了承ください。




追記:
今回の講演に先立って、地球家族ココペリの平和コンサートも行われました。「花と爆弾」のチャリティライブにはいつも参加してくれている素敵な家族バンド。曲目は、「8月6日」、「地球が笑う日」、「勇気の出る歌」、「いのち抱きしめて」、「ココペリ」。地球に生きるものすべてへの愛と、未来への勇気が会場を満たしていました。

2011/08/12

 
新しい暮らし方への序章

3月11日以降、関西電力や政府にお願いしてきた二つの事柄が、今週、相次いでかなえられた。

一つは、関西電力が長期計画停止中として、再稼動の予定がないと返答してきていた火力発電所の再稼動について。8月9日付けの神戸新聞によると、海南2号機(和歌山県海南市)▽宮津1、2号機(京都府宮津市)▽多奈川第2の1、2号機(大阪府岬町)で、合計出力は原発約2.5基分に相当する240万キロワットの再稼動が検討されているとのこと。定検などで停止した原発が再稼動できない場合、関電の来夏の供給力は2533万キロワットに低下するという事態を受けての決断のようだ。

ということは、仮に、2005年に稼動停止した多奈川第2の1、2号機(120万キロワット)だけでも来年夏に間に合えあば、2653万キロワットの供給力となり、猛暑だった前日8月8日の最大電力需要2687万キロワットにあと少しで足りるということになる。その他の発電所は停止からかなり時間が経っているので、間に合ってくれるかどうか。。。それでも、眠っている火力発電所を再稼動させて、原発なしでも地域の電力供給に全力を尽くす姿勢を示してくれたことに、今は感謝したい。


そして、8月11日、再生エネルギー特別措置法案の修正が民自公で合意され、来週にも衆院を通過し、今国会で成立する見通しとなった。買取量や家庭の太陽光発電は余剰分しか買い取らないなど、いろいろと問題もあるが、まずはこの法案が成立することを喜びたい。

政府の想定は、水力も合わせた再生可能エネルギーの電力の割合は、現在の9%から20年には13%ととするという控えめなものだが、ぜひ、みんなの力で、再生可能エネルギーをどんどん育て、またエネルギーを無駄に消費しないライフスタイルを築き、20年には再生可能エネルギーの割合を30%、50%とできればと思う。


来年以降の夏を想像する。関西電力の地域内では、原発によって発電された電力はまったくなくなる。しばらくは火力発電や天然ガスにお世話になることになるが、なるべく無駄な電力は使わないように、皆で知恵をしぼりたい。そして、毎年毎年、どんどん再生可能エネルギーが増えてくる。

世界に先駆けて、原発から抜け出し、
新しい暮らし方を関西から始められそうな、そんなビジョンが見えてきませんか?






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