2009/04/25

 
マフマルバフはカメラを回す

原題は『ブッダは恥辱のあまり崩れ落ちた』。
邦題は『子供の情景』
19歳の少女、ハナ・マフマルバフ監督の映画を見てきました。

それにしても、今日の初日は大盛況!
補助席がでるほどでした。
こんなにたくさんの方にアフガニスタンの映画に関心を持ってもらえて、ほんとうに嬉しく思いました。


映画の方も、映像も美しかったし、主人公の少女が勇気と智恵にあふれていて、ほんとうに可愛らしかった。
映像に込めらているものもとても深くて、いろいろと考えさせられる作りになっていました。
19歳の監督なのに、その思慮深さと技術の高さに感銘をうけました。


ストーリーは、アフガニスタンの6歳の少女バクタイの学校へ行きたいとの願いから始まる小さな冒険。大人の社会を反映する様々な問題が、子供たちにも影を落としていきます。


監督のハナの父親は『カンダハール』で世界に名を知られた映画監督のモフセン・マフマルバフ。原題の『ブッダは恥辱のあまり崩れ落ちた』は、彼の著書『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱に崩れおちたのだ』からの引用です。


この映画の最初と最後は、あのバーミヤン石仏破壊のシーンが使われています。


モフセンは、2001年以前干ばつと飢餓により何百万人ものアフガニスタン人が命を落とし、故郷を追われたのに、国際社会はまったく関心を払わず、それをどうすることもできない思いにかられた石仏が己の非力さを恥じて崩れたのだという比喩を用いて、私たち人間の無関心を嘆きました。



思えば、私もその無関心を恥じて、「花と爆弾」を出版したのでした。

拙著を締めくくる短歌。

・降り注ぐ爆弾麦に変われよとマフマルバフはカメラを回す



アフガニスタンの現状は相変わらずで、父マフマルバフだけでなく、娘までもがカメラを回さなくてはならない・・・、かなりつらい現実ですが・・・


『子供の情景』サイトで、爆弾を本にというワンクリック・キャンペーンが実施されています。
ちょっと楽しい感じだから、ぜひご参加ください☆
「爆弾よりも本を」

2009/04/07

 


ありがとう、ネルソンさん

** **
みんな、あなたが来たのを知っている
森も、森を吹き抜ける風も
父なる山が、子どもたちに歓迎の歌を歌わせているのさ
みんな、ネルソンさんをこわがらない
ネルソンさんの心のやさしさを知っているからね
みんな歌っているよ「ネルソンさんはひとりぼっちじゃない」って

子鹿のアウィ・ウスディも
ウズラのミネ・リーも
カラスのカグーも歌いはじめたよ
「ネルソンさんは
やさしく、強く、勇気がいっぱい
だからけっしてひとりぼっちじゃないよ」
** **

『リトル・トリー』の詩を少し書き変えて、
ネルソンさんへのお見舞いのカードに書かせてもらった言葉です。


本当に苦しい人生だったことでしょう。
でも、やさしさと勇気で心を満たし、それを行動に移し、
みんなに愛された人生でもありました。


ネルソンさんのお嬢さんがおっしゃった言葉、
「なすべきことを果たした父は今は安らかに眠る」


ネルソンさん、安らかにお眠りください。
でも、いつまでも、森も動物も私たちも、
ずっとずっとネルソンさんを愛しています。





新聞報道などでご存じの方も多いと思いますが、3月25日にアレン・ネルソンさんが永眠されました。
闘病資金のための寄付への呼びかけにご協力いただきましたこと、心よりお礼申し上げます。
本日、アレン・ネルソン・ネットワーク世話人の平塚さんより、ネルソンさんのご葬儀の様子、寄付金の詳細などのご連絡を受けましたので、下記にてご紹介させていただきました。

「本当の戦争」を伝えてくれたネルソンさん。
ありがとう。あなたはほんとうに愛と勇気にあふれた人でした。
              合掌  2009年4月7日 小橋かおる



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ご縁の皆様へ(090407) アレンさんの死去 葬儀    
平塚淳次郎(ANN世話人代表)
       
 多発性骨髄腫で闘病中のアレンネルソンさんは、多くの人の祈りも空しく、3月25日(現地時間)に死去されました。61歳。日本の多くの新聞が報じるところとなりました。

葬儀参列報告
 葬儀は31日にニューヨーク市ブルックリンで行われました。日本人参加者は、28日急遽成田から飛んだ佐野明弘、嬉野京子と私の世話人三人及び、ニューヨーク在の比嘉良治氏(ロードアイランド大名誉教授)、石橋行受上人(日本山妙法寺)の合計五名でした。

 式は二部に別れ、第一部は午後4時から5時までトロイ街のウッドワード葬儀会館で遺族、友人50名出席のもとに、第二部はその後親族中心の十人余の内輪の集いとして行われました。いずれの場にも故人の希望に基づく仏式の祈りが近代都市の一角に自然に溶け込んでいました。

 第一部の式場で手渡されたリーフレット「アレンネルソンの思い出」の表を飾るのは大阪の米澤俊氏作油絵<アレン像>の縮小写真版 ― 優しい口元のオシャレなアレンの視線の先には・・・?
 進行役の 子息ショーンさん(39歳)が、幼くして出会った育ての親アレンさんへの回想から始まりました。 遺族や友人が次々と立って、故人の人柄を偲びます。アレンさんがその一員であるクエーカーの集会形式に則るものでした。実の娘ロビンさん(29歳)はエイズ研究でドクターコースを修了したばかりの、アレンさんによれば「勝気な」女性。病床を見舞うたびに泣きじゃくるばかりだったと聞いていましたが、この日は、「なすべきことを果たした父は今は安らかに眠る」と淡々と語りました。

その後私が指名されて、日本列島を平和行脚してくれたアレンさんへの感謝を伝え、最後に三宅信一氏の英文弔辞を読み上げました。― 1997年、来日二年目に矢臼別基地訪問をした直後に出された「貴方の息子アレンより」という故人の手紙を引用した後、「君をわが家族の一員として迎えたことを誇りに思う」と結ばれていました。矢臼別はそれ以来、沖縄と共に故人の年毎の巡礼の二大聖地となりました。最後の十五分間、真宗僧侶の佐野師の読経が鉦の音に和して会場に流れました。「一人ひとりが故人と向き合うひと時」でした。
 第二部の舞台はアレンさんが入院直前の数週間を過ごしたマクダナフ通りの石造り三階建ての一階の部屋。苦痛のうめき声で「アネッタの休息を妨げたくない」と、自分のベッドだけを二階からここに移した「最期の闘い」の場でした

 ギタリスト、アレンの写真を正面に据え、日本から届けられていた千羽鶴や寄せ書き、お見舞い状、弔辞が周りの本棚や壁を飾り、ろうそく、線香などの仏式調度と共に厳粛な中にも出席の人たちの気持ちを和ませる空間がありました。佐野、嬉野両氏がアネッタさんと相談しながら、前日までに準備したものでアネッタさんの説明を受けた遺族は感謝。読経する墨染めの佐野師の傍らに瞑想合掌する石橋上人の黄の衣がよきコントラストをなしていました。こらえきれなくなって嗚咽するアネッタさんの背をショーンさんが優しく撫でてあげるシーンがあり、師は蓮如上人の「白骨の書」を読み上げました。15世紀の日本の仏教指導者が自らの娘と妻を失った直後に同じく別離の悲嘆にくれる人に宛てた手紙であるという説明に、頷く人も・・・。私は第一部で聞いたロビンさんの想いと重ねていました。

 機会を得て、アレンさんに寄せる嬉野さんの思いを私から紹介、皆さん肯きながら聞いてくれました。因みに彼女は、海兵隊員ネルソン二等兵が駐留当時の沖縄に渡航、決死の報道を行った写真ジャーナリストで、30年後一人のアメリカ市民として沖縄に戻ってきたアレンさんの平和のメッセージに強く共感、十年来東京の自宅を提供して関東方面の講演に同行して来ました。
 憂愁のハーモニカを追って、ギターに乗ったアレンさんのアメージンググレ-スの深い声が参列者を包み、アネッタさんの涙の謝辞で幕となりました。

追記
1 当世話人会の呼びかけに応えて短期間に寄せられた募金その他、<アレン支援>のご協力に心から御礼申し上げます。アレンさんの想い、そしてアレンさんへの思いの広がりを改めて感じています。
2 世話人会を通じてアネッタさんのもとへ届けられた募金総額は84,243ドル(8,134,790円)です。「いただいたお金は医療費、葬儀費用支払いに足りる充分な額であり日本のみなさまに心からお礼を申し上げます」というアネッタさんの言葉をお伝えします。
 今もネットワークの元に届けられている基金の残余の部分(300万円超)については「アレンの遺志に沿った形で活用してください」との未亡人の思いをいかしたいと思います。
3 遺骨は生前のアレンさんの希望に基づいて日本に埋葬されることになりました。6月25日(木)来日のアネッタさんを迎えて、<偲ぶ会>を兼ねる<アレン納骨の儀式>を石川県加賀市の光闡坊(コウセンボウ=佐野氏住寺)で行います。
4 当世話人会はその日(6/25)をもって解散の予定です。

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写真は、主催させてもらったネルソンさんの講演会で、ココペリさんと一緒に演奏するネルソンさんです。
また、闘病資金への寄付のご協力、これまでのネルソンさんとの交流を2009年1月の記事にてご紹介いたしております。

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