2012/03/29
『放射線被曝の歴史』を読んで:ICRPの精神とは?
1991年に刊行された『放射線被曝の歴史』。当時神戸大学教授であった中川保雄氏(1991年病没)が病床にありながらも、放射線被曝の危険性と、それを過小評価してきた原子力利用推進機関の正体を知らしめようと執筆された、貴重な警鐘の書だ。
丹念な研究を元に書かれたものであるので、読む方にもかなりの忍耐と集中力がいるが、なんとか読み終え、そして、この警鐘を、今現在、そして未来において放射線被曝と向き合っていかなければならない日本に住む人々に、どうしても知らせたいと思った。少しづつではあるが、気になったニュースなどに照らし合わせて、中川氏の警鐘を紹介したい。
まず、「放射線等に関する副読本」高等学校用を読んで感じたことから始めたい。
文部科学省が作成し、この春の新学期(2012年度)から日本全国の小学校・中学校・高等学校で使用される「放射線等に関する副読本」を読んだ。その中でも高等学校用副読本は、放射線被曝に対する姿勢が、中川氏が警鐘を鳴らしていたICRP(国際放射線防護委員会)の基本的な考え方が非常に鮮明にでているものと見受けられた。まず、どの部分にそれを感じたのか紹介したい。
「国際的な機関であるICRP(国際放射線防護委員会)は、一度に100ミリシーベルトまで、あるいは一年間に100ミリシーベルトまでの放射線量を積算として受けた場合でも、線量とがんの死亡率の間に比例関係があると考えて、達成できる範囲で線量を低く保つように勧告しています。」(p.13「放射線による人体への影響」より)
「放射線の場合は、多量の放射線を受ければ、がんなどの症状が将来において現れるかもしれないというリスクがありますが、その一方で、放射線を用いたX(エックス)線撮影、CT(コンピューター断層撮影)などの利用により体内臓器の検査をしたり、早期にがんを発見したり、放射線を照射してがんを治療することができるというベネフィットがあります。」(p.20 「コラム・リスクとベネフィット」より)
マスメディアでは、「100ミリシーベルトまでは影響がない」と解釈できるような言説が流布しているので、これを読まれて意外に思われた方もいるかもしれないが、ICRPも被曝線量とがんの死亡率には比例関係があるとの見解を示している。それがICRPでさえも認めざるを得ない、これまで蓄積されてきた基本的な科学的知見であろう。
さて、それではこの文言のどこに懸念すべきICRPの考え方があるかというと、「達成できる範囲で」という箇所であろう。どの程度を達成できる範囲と考えるか?それが、次に引用したリスクとベネフィットの考え方だ。もちろん、何事にもリスクはある、だからベネフィットと天秤にかけて考えるべきなのだ・・・そのように、個人の健康の範囲でのリスク・ベネフィットが副読本では紹介されているようだが、そのリスク・ベネフィット論を展開するICRPの「ベネフィット」とは何であろうか?
ICRPの07年の勧告を見てみよう。以下、『放射線被曝の歴史』補筆より引用する。
ICRPは1977年勧告以来、「正当化」「被曝限度」と並ぶ放射線防護の三原則の一つとして「最適化」を採用してきた。07年の勧告は、とくに「緊急時」と「現存」の二つの被曝状況では、「最適化」を最重要の原則として提起し、この原則を「経済的社会的要因を考慮して、被曝の発生確率、被曝する人の数、および個人線量の大きさをいずれも合理的に達成できる限り低く抑えるための線源関連のプロセスである」と定義している。
この原則は、「(経済的)合理性」が前提にされており、決して個人線量や集団線量を最小化するものではない。重大事故の収束や、汚染地域での生活の維持(経済的社会的要因)を理由に、被曝によって失われる労働者や住民の命の値段(損害)と、管理、除染などの対策の費用とを天秤にかけ、これらの合計で与えられるコスト(費用)を最小化するというものである。(pp.296-297)
ここに述べられたICRPの精神を簡潔に言い換えれば、達成できる範囲の被曝とは、「経済的にまかなえる範囲」ということで、決して「健康障害を起こさない範囲」ではないということであろう。
中川氏は著書の中で、ICRPの精神を、組織をこう断じている。
彼らが高らかにうたいあげているICRPの精神とは、被曝を、人の生命を、金勘定する精神である。原子力産業は、現代の死の商人である。彼らは被曝を可能な限り少なくしようなどと考えはしない。(p.263)
放射線関係者が国際的組織を作って自分たちの健康のための被曝基準を制定したのは過去のことである。核の時代に入って以後、被曝防護の体制は、核兵器と原子力発電を至宝とする支配層が、被支配者にヒバクを強要するための社会的仕組みとなった。被曝線量限度は、支配者による被支配者へのヒバク押しつけ限度である。ICRPは国際的科学権威の組織などど言える代物ではむろんない。ICRPとは、ヒバクは人民に押しつけ、経済的・政治的利益は原子力産業と支配層にもたらす国際的委員会である。(pp.263-264)
「国際的科学権威」と思われているICRPが、いかなる背景を元に、いかなる人々によって組織され、実際は科学ではなく、政治的見解を示す機関になったのかは、中川氏の著書『放射線被曝の歴史』をお読みいただければ明らかだが、いつか当ブログでも紹介できればと思う。
今回は、文部科学省作成の「放射線に関する副読本」を読んだ上で、私が思い起こした中川氏の警鐘を紹介した。氏の言葉を簡約すると、ICRPの言うベネフィットとは、被曝する被支配者個人の健康に関することではなく、支配者層の経済的利益のことである。そのような精神に基づいた組織が勧告する放射線被曝許容量が、被曝を強いられる個人にとってどのような意味があるのか、一度じっくりと考える必要があるのではないだろうか?
引用文献:
「放射線等に関する副読本」高等学校用
http://radioactivity.mext.go.jp/ja/1311072/111104koutougakkou_seito.pdf
<増補>『放射線被曝の歴史-アメリカ原爆開発から福島原発事故まで』 中川保雄 著 明石書店 2011年刊
注1:引用部内の太文字もブログ筆者による
謝辞:拙ブログ記事を査読してくださった、中川保雄夫人、慶子様に深く感謝いたします。
写真:核のない世界を願って
・核弾頭を集めて送ろう木星に春には桃の花が咲くから
短歌:小橋かおる
書:小阪美鈴
2012/03/12
水素爆発から1年・・・悪夢から醒めるために
・水瓶の水流し込め観世音崩壊熱に燃ゆるウランへ
昨年の今日午後、外部電源を失い原子炉が冷却不能となった福島第一原発1号機が水素爆発。その後も3号機、2号機、4号機と次々と爆発。どうすることも出来ず、ただただ福島第一原発の映像をテレビで見続けるだけの数日間、その時の私の心情を31文字に込めた一首です。
2011年3月11日の夜に、原発の外部電源喪失の一報を聞いた時から、時間がねっとりと流れているような感覚にとらわれています。あるいは、夢の中で逃げようと走っているのに足が重くてうまく動かないような、足元がずぶずぶと地面に埋まってしまって、前に進めないような、そんな感覚。
最初の原子炉の爆発から1年。今でも1、2、3号機のウラン燃料はどこにあるのかも分からない状態です。そして、4号機の使用済み核燃料プールはまだまだ倒壊の危機を脱していません。そして、今でも1時間に1000万ベクレルという単位で福島第一原発は放射性物質を放出してるのです。
ウランの半減期は数億年のものから45億年のものまであると聞きます。地球が誕生した頃からずっと放射線を出し続けている、地球のエネルギー体そのものような物質を地中深くから取り出し、兵器や電気をつくるために原子炉に閉じ込めておこうとした科学。崩れ落ちた福島第一原発は、計り知れない時間とエネルギーをもつ地球という大宇宙に挑んだ、人間の知能の愚かさの象徴のように見えます。
このウランという強大なエネルギーを操ろうとした人たちは、まだ自分たちの無力さに気がつかないようで、それを隠すために必死で「除染だ!」「ストレステストだ!」「再稼動だ!」と騒いでいるようですが、この神のごときエネルギー体を、人間などたかだか地上に誕生して100万年も経たない、寿命も100年もないようなちっぽけな存在に、コントロールできるわけがありません。
ウランと闘ってはなりません。放射線を放出する物質からは逃げるしかありません。目には見えない放射線ですが、誰も大津波に立ち向かっていけないように、放射線もまた、人間にはどうしようもない巨大すぎるエネルギーなのです。
この1年間、事実を受け止められない知能に翻弄され、それが自治体、国、企業の政策となって、どうしようもないような混沌を引き起こしてきたように思えます。
足が動かず逃げられないようなこの悪夢から醒めるために、真実を見つめませんか。ひとりひとりの心が真実を受け入れれば、おのずと道は開かれてくると、私は思います。
絵:「天の川」小橋かおる
短歌:『海市』84号 海市短歌会2011年刊 所収
追記:怪物のようなウラン燃料をなんとか閉じ込めようと福島第一原発で働いてくださっている作業員の方々には、言葉にもできない感謝と自責の念を感じています。祈ることしかできないことが、口惜しい。
2012/03/08
太陽の牢獄・受胎告知
先日、元町で開かれていた神戸大学美術部凌美会の展覧会に行きました。
会場に入るとすぐに、二つの大きな作品に目を奪われました。
「太陽の牢獄」と「受胎告知」
太陽と女性があらゆる配管によって閉じ込められている二つの絵。
ウラン燃料を鋼鉄の容器で囲み、おびただしい数の配管で管理しようとした原発を連想させます。
科学とは、母なる自然を分析し、解体し、そして支配しようとする人間の知能のなせる業とも言えましょう。この二つの絵は、その科学のゆくえを描いたように私には思えました。
頑強に見える鋼鉄の配管。
牢獄となって太陽を、女性を捕えているけれど、
女性の体内には命が宿っている。
太陽はその鋼鉄の容器の中で燃えさかっている。
外部電源を喪失したとたん、
圧力容器を突き破ったウラン燃料のように、
太陽も命も、
科学を突き破って、
あふれでてくることでしょう。
そして、何事もなかったかのように、
輝きを放つことでしょう。
大きな二つの絵の前に立ち、
そんなことを考えていました。
注:画像は作者の神戸大学美術部島田賢ニさんからお借りしました。
画像のコピーや転載はご遠慮ください。